Ein Gastbeitrag: Katrin Loose „Encountering an A-Bomb Survivor“
Die Autorin, Frau Katrin Loose, hatte während ihres Japanaufenthalt eine unvergessliche Begegnung mit einer hibakusha, einer Atombombenüberlebenden in Hiroshima, und schrieb ein Essay über ihre Eindrücke. Sie hat es uns als Gebet für den Frieden in der Welt in der gegenwärtigen Krisensituation zur Verfügung gestellt.
Sie hat einen BA in Japanologie und Betriebswirtschaftslehre von der Johann Wolfgang Goethe-Universität Frankfurt am Main und einen MA in Sports Management von der University of Stirling, UK, und lebt heute in London.
Die japanische Zusammenfassung finden Sie weiter unten. Für den englischen Originaltext bitte hier klicken.
著者のローゼ・カタリンさんは学生時代の日本滞在中に、広島で被爆した被爆者との忘れがたい出会いを経験し、その体験をエッセイにまとめました。現在の危機的状況にある世界での平和を祈って、そのエッセイをここにご提供くださいました。日本語のまとめの後に英語原文が続きます。ルースさんはフランクフルト大学で日本学と経営学の学士号、イギリスのスターリング大学でスポーツ・マネジメントの修士号を取得し、現在はロンドンにお住まいです。
日本の読者の皆様に
2016 年 9 月の夏季休暇中に、私は広島の「ワールド・フレンドシップ・センター」を訪れ、1945 年 8 月 6 日に広島に投下された原子爆弾の被爆者の貴重なお話を伺う事ができた。Encountering an A-Bomb Survivor (被爆者との出会い)は、その体験から生まれたレポートである。
当時フランクフルトのゲーテ大学で日本学と経営学を学んでいた私は、1945 年の出来事が日本の人々の生活をどのように形作ったのかをもっと知りたいと思っていた。このレポートで、80 代の被爆者であるカサオカ・サダエさんが暑い夏の朝、私に 教えてくれたお話を、皆さんにもお伝えしたいと思う。原文が英語なので、以下に日本語で短くまとめたものを掲載する。
カサオカさんが 12 歳のとき、彼女の街に原爆が落ちた。当時の彼女にとって、すでに人生の三分の一は戦時中で、それはもはや日常のようであった。しかし、それと同時に戦争はどこか遠くのものにも感じられた。日本は空襲を受けていたが、広島では直接的な戦闘はなく、首都東京ほどは空襲被害を受けていなかった。カサオカさん自身、戦争で兄を一人亡くしており、もう誰一人兄弟を失いたくないと思っていた。8 月 6 日、次兄が休暇で帰ってきており、彼女は家で元気に過ごしていた。
カサオカさんは、爆弾が落ちた朝のことを鮮明に覚えている。実家は市から 2、3 キロ東に位置する丘の陰にひ っそりと建っていた。リビングの広い窓のそばに立ち、明るい空を眺めていたのを覚えている。今に して思えば、それは嵐の前の静けさのようだった。突然の閃光に襲われるまでは。一瞬にして、カサ オカさんはその光に包まれ、意識を失った。
気がつくと、彼女は居間に横たわっていた。彼女は混乱し、横を向くと一面に透明で光り輝くものが散乱していることに気づいた。爆発の衝撃波で窓が割れたのだ。この時刺さった破片を取り除くためにカサオカさんはその後何年も医師の治療を受けなければならなかった。
そしてカサオカさんは、両親が友人の用事を手伝いに繁華街へ出かけたまま帰ってこないことに気付いた。兄と一緒に両親を探しに街に出た。街の中心部に近づくにつれ、その惨状は酷くなっていっ た。日本で有数の大きな都市は様変わりしていた。黒く塗りつぶされたような家々の壁、あるものは 崩れ落ち、あるものは燃え盛り、あるものは柱や梁しか残っていなかった。負傷した人々がそこら中におり、なかには妖怪と見間違うような酷い状態の人もいた。カサオカさん兄妹は川沿いを探したが、川には大量の死体と瀕死の人々が浮かび、遺体を引き上げることもできず、下流へと流れていっ た。
両親が見つからないまま家に帰ると、父親が戻ってきていた。しかし、喜びもつかの間、父親の様子を見て驚愕した。黒い肌、頭部に髪はなく、見分けがつかないほど顔は焼けただれていた。最初は黒い煤が肌を覆っているだと思い、そっと洗い流してみるとそこに皮膚はなく、赤い肉が剥き出しの状態であった。熱で皮膚が焼け焦げて、父の体は薄い黒い層で覆われていただけだった。その後間もなく、ウジ虫が彼の体にはびこり始め、開いた傷口を食い荒らし、内側から彼を蝕んでいった。明らかに悲惨な状態にもかかわらず、父は子供たちに母を探すよう促した。両親は市内から逃げ出そうとしたとき、パニックに陥った群衆の中でお互いを見失ってしまったのだ。子供たちは捜索したが見つ けられなかった。父は数日後に死に、二度と母に会うことができなかった。
兄妹は手がかりを探し続け、数週間後、近くの寺の死亡者名簿に母の名前を見つけた。カサオカさんは、母が捜索の途中で通った河原の一角に横たわり、衰弱し、見知った誰かに見つけてもらいたいと願いながら、絶え間なく流れる死体を見つめている姿を想像し、底知れない悲しみに襲われた。
しかし、カサオカさんのお母さんのような死は、1945 年の広島では何千にものぼった。
両親を亡くした後、カサオカさんの家族は、他の多くの人々と同様に、少しずつ自分たちの生活を取り戻そうと努めた。原爆が投下された直後、多くの人々は原子爆弾の危険性を知らずにいたため、かなりの量の放射線を浴びた。その結果、長期にわたる病気、他の病気への罹患、全体的な寿命の大幅な縮小など、将来の生活に深刻な影響を及ぼした。放射線の危険性について、公にはほとんど取り上げられなかったため、被爆者に対する差別や偏見に拍車をかけ、彼らの生活をさらに困難なものにした。そのため、多くの人は、そういった社会的な同情や差別に直面しないよう、自分が被爆者であることを隠すようにしていた。カサオカさん自身は、フレンドシップ・センターの活動を知ってから、 自分の体験談を話し始めた。彼女は、原爆が人類に及ぼした卑劣な影響について語り、平和を促進することが自分の義務だと考えている。そして、読者の皆さんも同じように平和のために行動してくださることを願っている。この記事に興味を持たれた方は、どうか私の原文をお読みください。
私がお話を伺ったカサオカさんは、あの日落とされた原爆によって、残酷にも人生が一変してしまった沢山の人々の一人である。他にも数えきれないほど、このような悲惨な経験をした人々がいる。そのうちのいくつかの経験談は、広島の平和記念資料館で聞くことが出来る。しかし、ほとんどの被爆者の体験は語られることはなく、徐々に忘れ去られようとしているのが現実である。そうならない為には、一人一人の小さな行動がやはり大事だと考える。どんな状況であっても、私たちは自分できちんと考え、どう行動するのかを選んでいかなければならない。こんな取返しのつかない惨劇をもう二度と起こさないために。
(原文のまま)